木々の切れ間から差し込む低い光の中、緑色とも茶色ともつかないお湯の中に身を沈ませ、ぼんやりと考えているのは、二十数年前に南イタリアの小さな街で一人で迎えた新年のこと。

細かいことは忘れてしまったが、年末年始はバスや列車が動かないとかで、イタリアの踵の付け根辺りにある小さな街で数日間足止めをくらった。この期間、お店などはほとんどが閉まっており、かろうじて入手できたパンやお菓子などを片手に、ただひたすら街を彷徨うことしか、することがなかった。数時間も歩けば全てめぐれてしまうような小さな街。いま考えれば、"イタリア版白川郷" のような街に、数日間閉じ込められたのだ。観光の街とは言え、さすがにこの時期は誰もが家族と過ごし、アジアから来たバックパッカーは見向きもされない。思えばこの頃から私は、街をあてもなくブラブラしていた。

そんな何十年も思い出すことのなかったかつての記憶を辿っているのは、今日湯に入る前に、その街の名前を冠したレストランで食事をしたから。ピッツァもパスタもとても美味しかったが、なによりも「スクーズィ、イルコント ペルファボーレ!」(=すみません。お会計お願いします。)と書かれた伝票を見たことで、当時の旅の記憶が一気に蘇ってきた。

それにしても、まさか外国と自由に行き来が出来た時代を懐かしむようなことになろうとは。外国はおろか、国内の移動も自由にならない時代。とても奇妙な時代を、いま自分は生きている。そう感じる。

日の光を浴びながら真昼間に風呂に入るのは、自分にとって何よりも贅沢な時間。湯に浸かったり浴槽に腰掛けたりを繰り返しながら、ぼんやりと無為に過ごす一時間。立ち上る湯気の向こうに、光に輝く木々を眺めながら、今日のようにかつてのことを思い出すこともあるが、風呂の中では何も考えないのが理想だ。頭を空っぽにすることで、またその空いたスペースに何かが入ってくる。でも、これがなかなか出来ないのが現実。自分の中では、風呂は座禅の代わりのようなものと考えている。お坊さんに怒られそうだが…。

平日休みの良さ。それは出掛けた先が空いていることにある。この広い湯船を独占できることも稀にある。でも大抵は自分と同じような温泉好きの先客がいる。それはそれで悪くない。「あなたもここがお気に入りなのですね。」目線は合わせないが、心の中で会話をする。服や身に付けるものが取り払われた、一切の記号性のない裸の状態になると、人間誰しも頼りない感じになり、それが故に皆優しい感じがする。そんな点も私が温泉が好きな理由である。おっと、もう一人誰か入ってきた。この湯船は二組が理想だ。俺が出るから、どうぞごゆっくり。

ここでは、風呂から上がった後の時間も格別である。昭和四十年代に町田の郊外にあった旧農家を移築したという宿のロビーで、風呂上がりの時間を過ごすことが出来る。自家製のスカッシュが、湯上りの渇いた喉に心地いい。

古いが長く愛され、手入れがされてきた材料で構成される空間は、適度な緊張感と優しさが同居している。宿の方々の楚々とした佇まいと控えめな感じも、この空間を構成する大切な要素の一つである。

季節ごとに変わる玄関の室礼。いつ訪れても美しい。地域としてはだいぶ寂れてしまっている感じのある七沢温泉だが、このように凛とした佇まいの湯宿が今も残っているのは本当に素晴らしい。

七沢温泉 元湯玉川館

と、偉そうに書いてきた私ですが、利用はいつも立ち寄り湯 ¥1,000 ばかり。ショボ…。自宅から車で一時間の所にある宿に泊まれるようになったら、いよいよ大人の階段を上ることになると思っています。「マイクロツーリズム」が提唱される中で、いよいよ我が家が元湯玉川館に泊まる日も近い?

それにしても ¥1,000 で得られる極上の時間であることは間違いありません。写真の通りバイクラックも用意されているので、私はまだやったことがありませんが、ライド&温泉というのもいいかも。夏などはヤビツの帰りなどに良いかもしれませんね。

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